津久井観撮レポートその3
「手作り感あふれる石造り橋と郷土史」
7年前 紅葉を求めて神ノ川に行ったとき偶然出会った。石の組み方の手作り感と手法の巧みさに不思議な魅力を感じた。いつごろ造ったものか不明だが、きっとその頃は重機などなく、組み立て方も謎だらけ。3年間ここを訪れるたびに考えたが、私には解決する力がなかった。今どき、現場でスマホを見ればすぐ解決するのだろうが、自身で解明した方が、ロマンと楽しみがあると考えていた。
現在、施設は何も残っていないが、以前に県道を通ったとき、この付近に古い建物があったことを記憶していたので、それをヒントにこの立派な橋が何故造られたのかも思いめぐらした。その古い建物とは長者舎山荘であった。昭和30年(1955年)神奈川国体の時、山岳競技に合わせて作ったとか。それに関連した石橋だったのだろうか。その山荘も平成21年(2009年)に取り壊されたが、石橋だけはがっちりと残っている。
長者舎山荘の名はおそらく当地の「長者舎」という地名から取ったものだろう。こんな丹沢山塊の何もないところの地名としては不思議だ。
【神ノ川ヒュッテまでの県道沿いに建てられている立て板看板】
津久井町郷土誌(発行 津久井町教育委員会 昭和62年)や立て板看板などによると、この地で明治35年(1902年)に牧場を開いた人がいたという。牧場などできそうもない山間地にどうして造ったのだろうか。そこにヒツジを放牧したそうだが、寒さのため多数死亡し、牛の育成に切り替えたようであったが、2~3年で終わったらしい。
続いて大正5年(1916年)には、炭焼きを仕事として70戸ほどの集落ができた。この山奥には適した仕事であったろう。当然、子供もいたので、大正6年(1917年)に生徒数12名で青根小学校の分校ができた。ちなみに現在の青根小学校は生徒数4名で、今年度で廃校になる。政令指定都市相模原市の中にも、限界集落があることは今後の大きな問題を含んでいる。
さて、その分校跡地には小さな石碑と立て板看板が荒地の中にポツンと立っている。
山奥にあった70戸の集落の悲劇は大正12年(1923年)に起こった。関東大震災である。あまりにも被害が大きかったので四散し、分校も廃校となった。だが、別の資料では同年9月に水害のため分校は流失し、同部落は大部分が流失、埋没し、居住者はいなくなり廃校、という記録もある。
【神ノ川分教場跡地に立つ石碑と立て板看板】
ほかにも「折花姫」の伝説があり、この丹沢山塊の奥深く流れる神ノ川は立て板看板にあるように、武田信玄の時代から明治、大正、昭和、平成と数々の歴史を刻んでいる。それらは自然の豊かさゆえに繰り広げられた郷土史なのだ。
【長者舎山荘跡地近くの神ノ川の紅葉】 【長者舎山荘跡地の紅葉】
今ではこれらの歴史は立て板看板と少々の資料だけとなって忘れ去られようとしている。だが、ここの紅葉は昔から変わることなく当地の誇れるものである。その見ごろは11月下旬から12月上旬まで。神ノ川ヒュッテまで車で行けるので、立て板看板を読みながら散策すると、埋蔵金の話まで出てくるので、秋の一日が楽しめる。
文章・写真:里の案内人 安川源通
※2019年10月24日現在、台風19号の影響により神ノ川ヒュッテ周辺の県道76号や国道413号の道路では通行止めが発生しています。お出かけの際は、あらかじめ道路の通行状況をご確認ください。
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