津久井湖
2019月9月27日

津久井観撮レポートその2
「気になる樹 禅寺丸」

【津久井湖の北側から津久井の中心の町中野方面を眺める。そこに大きな柿の樹がある。この樹に出会ったのは20年ほど前になるが、その時も、秋空にカキがたわわに実っていて、この樹には語り掛けてくる何かを感じていた。 柿の木の奥には、道志山塊の寝姿観音の姿が見られ、その左の家並みが中野の町】

津久井は道志川や相模川の恵みを受け、大昔から人々が生活している里山である。
産業では山間部だけに昭和20年代には木炭王国を誇るほどだった。また、明治時代は養蚕も盛んで、昭和初期より酪農、次いでミツバやキュウリも盛んに栽培された。
そんな歴史ある里山だけに昔の遺産が町のあちこちでみつかる。この柿の木もその一つだ。

 

この樹の魅力は長寿の樹形と景観の良さ、カキの持つ歴史、持ち主の愛情にある。
樹の高さはおよそ19m、周囲2m5cmで、バックの景観の良さもこの樹の存在感を増している。その大きさに比べて実は直径4.5cm、高さ3.5cmと小ぶり。そこに興味を持ち、持ち主のおじいさんに聞いてみると「この柿は禅寺丸」だと言う。今では見向きもされなくなった禅寺丸と津久井の郷土史に興味が湧いてくる。

 

【禅寺丸。高さがあり、まん丸い感じ】

 

津久井古道の一つに津久井道がある。それは江戸からの街道の一つ大山街道から三軒茶屋で別れ、登戸、柿生、鶴川、橋本、津久井中野を通り吉野で甲州街道と合流する道である。この道は沿道の人々の生活や商業活動を支えた商業路で、それぞれの地域の特産品を江戸に運ぶ重要な役割を果たしていた。特に柿生や鶴川方面の柿や炭と津久井方面の絹の材料である繭を江戸に運んでいた。その柿生の特産品が柿の禅寺丸だ。

禅寺丸は鎌倉時代(1214年)に川崎市麻生区の山中で自生しているのを偶然発見された。それまで日本各地の柿は渋柿ばかりで、この柿が日本で最初の甘柿となり、美味なので近隣でも栽培されるようになった。津久井でもこの津久井道を使って繭を江戸に運んでいたので、津久井の商人も禅寺丸と出会い、栽培されるようになったのであろう。

津久井中野から甲州方面に向かうと近隣に、三ヶ木の野尻という地域がある。そこは徳川時代から明治中期まで大変繁栄した時代が続いた。その頃、荷物の運搬は馬で荷物を運ぶ荷駄に頼り、道志川と相模川の合流点を対岸の沼本まで渡し船で往来していた。そのため、野尻は宿場町として栄え、旅人にとって甘柿の禅寺丸は疲れを癒し、お土産としての貴重な味覚で需要も大きかったであろう。

 

その野尻に今も大きな禅寺丸の樹が道路わきにある。持ち主は下を通る人や車などのために気遣っているようで、一時は切ってしまうという話もあった。今となっては品種改良が進んだことにより禅寺丸は他の柿より実が小さく、甘みも劣るので、多くは切られてしまったが、これらの禅寺丸はなぜか健在なのだ。

柿には収穫後、枝先に実を一つだけ残す風習が各地にある。それは鳥のためとか、来年も豊作になるように祈るためとか、収穫への感謝などからそのようにするという。だが、ここの禅寺丸は歴史ある大きな樹なので、人の手ではほとんど収穫できないし、一つだけ残すことなど到底できるとは思えない。

 

 

 

 

 

【もう一本の巨木。2015年11月撮影。今年も葉も茂り健在】

この柿は甘いですか?と聞いてみると、老夫婦そろって「食べたことなんてない。みんなサルが食べてくれる」と笑って答えた。自然と向き合って暮らしてきた持ち主の家では、この樹はご神木のように思えるのであう。
実を一つだけ残すことを「木守り柿」というそうだが、ここでは木を守るだけでなく、地域を守るシンボルのような気がしてきた。
無駄なものはすぐ処分してしまう昨今だが、役に立たないように思えるものでも、地域や人を守ってくれるものが身近にたくさんあるように思う。禅寺丸よ!どうか朽ちるまで生き続けて欲しい。

文章・写真:里の案内人 安川源通

 

 

関連リンク:津久井観撮レポート(はじめに)関連リンク:津久井と写真の共通点を見つめる -NPO法人里山津久井をまもる会 安川源通さん

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